2011年 12月 18日
ドラゴンクエストⅠが発売されてから、25周年を迎える今年、WiiでⅠ・Ⅱ・Ⅲ三部作が復刻された。
このソフトの復刻版「ファミコン神拳奥義大全書」で、堀井雄二は次のように語っている。
日本のマンガ・アニメ・ゲーム文化をあたかも日本人だけで生み出したかのように言われることがあるけれども、手塚治虫はディズニーの影響を受けていたし、日本のサブカルチャーは必ずしも独自の発展を遂げていたわけではない。
むしろ、日本のサブカルチャーは、海外の影響を受けつつ、「日本語」という文化的障壁のおかげで、独自の「文脈」を発展させてきたというべきだろう。
そしてその文脈の発展には、作り手側の商業的で戦略的なリテラシーの開発・普及という、努力があったのだろう。
FF2400.jpというサイトに「FPSが日本で主流とならない理由」(http://ff2400.jp/Column/game/FPSha/FPSha.html)という面白い文章があるけれど、まさに、 ゲームとリテラシーというのは、こういうところに出てくるのだろう。
また、岡田斗司夫の「オタク学入門」(新潮OH!文庫)には次のような話が出てくる。
岡田はこの話を「アート」の文脈・定義の問題としてとらえているようだけれど、確かにアートの文脈・定義の問題でもあるが、同時にゲームの文脈の問題でもある。
なぜ、ドラクエⅠ・Ⅱ・Ⅲが、25周年として復刻されるほどのゲームとして扱われるのか。
それは、もはやおじさん(おばさん)になった当時の子供たちの「思い出」というだけではなく、RPGに対するリテラシーの基盤を作ったからだろう。
そこには、単なる商売以上の意義があるように思ってしまうのは、私がすでにオッサンだからだろう。
このソフトの復刻版「ファミコン神拳奥義大全書」で、堀井雄二は次のように語っている。
とにかくRPGというのはやれば必ず楽しいんだけれども、当時の海外RPGは敷居が高すぎると思っていたんですね。最初に何をやればいのか、その後どう楽しめばいいのかも、よくわからない。だからファミコン神拳で徹底的にRPGというゲームを説明して、プレイする前の予備知識や期待感を読者にもってもらう、ある意味”教育”みたいなことをやっていこうと思っていたんです。(同書P127)
日本のマンガ・アニメ・ゲーム文化をあたかも日本人だけで生み出したかのように言われることがあるけれども、手塚治虫はディズニーの影響を受けていたし、日本のサブカルチャーは必ずしも独自の発展を遂げていたわけではない。
むしろ、日本のサブカルチャーは、海外の影響を受けつつ、「日本語」という文化的障壁のおかげで、独自の「文脈」を発展させてきたというべきだろう。
そしてその文脈の発展には、作り手側の商業的で戦略的なリテラシーの開発・普及という、努力があったのだろう。
FF2400.jpというサイトに「FPSが日本で主流とならない理由」(http://ff2400.jp/Column/game/FPSha/FPSha.html)という面白い文章があるけれど、まさに、 ゲームとリテラシーというのは、こういうところに出てくるのだろう。
また、岡田斗司夫の「オタク学入門」(新潮OH!文庫)には次のような話が出てくる。
(アトリエ・アルマーのアーティストたちに)僕は、「マリオやソニックなどのコンピューターゲームをアートとしてどんなふうに評価しているか?」と聞いた。(中略)ところが、アトリエ・アルマーのリーダー、ローレンスはこの問いを一笑に付した。「ゲームはアートじゃない。うちの子もゲームが好きで、放っておくとゲームばかりやりたがる。だからゲームは日曜日に1時間だけと決めている。日曜日は家族で子供を美術館や博物館に連れて行って、アートとは何かをちゃんと教えている」(同書P236~237)
岡田はこの話を「アート」の文脈・定義の問題としてとらえているようだけれど、確かにアートの文脈・定義の問題でもあるが、同時にゲームの文脈の問題でもある。
なぜ、ドラクエⅠ・Ⅱ・Ⅲが、25周年として復刻されるほどのゲームとして扱われるのか。
それは、もはやおじさん(おばさん)になった当時の子供たちの「思い出」というだけではなく、RPGに対するリテラシーの基盤を作ったからだろう。
そこには、単なる商売以上の意義があるように思ってしまうのは、私がすでにオッサンだからだろう。


